その五号仮名書体によって、私たちが目にする本文書体の礎を築いた東京築地活版製造所。築地活版は、「秀英五号」などに受け継がれて生き続けてゐる“前期五号”仮名書体と、石井中明朝のオールド仮名などに受け継がれて生き続けてゐる“後期五号”仮名書体を産み出してゐます。
築地活版自身による活字書体の見本として、明治27年の『座右之友』から“前期五号”、明治36年の『活版見本』から“後期五号”を近代デジタルライブラリーより引いておきませう(以下の図版はすべて近代デジタルライブラリーより)。
ここで“後期五号”と呼ぶものを、佐藤敬之輔『ひらがな 上』(1964年、丸善)は「改正五号」と呼び、その出現状況について今見るとちょっと“トンデモ”なことを記してゐるのですが、この他に後期五号の出現時期について言及があるのは、私が調べた範囲では府川充男さんの諸著作のみでした。
府川さんは、「小括・築地体と秀英体」(『タイポグラフィックス・ティ』第150号、1993年5月)では、次のやうに「明治三十年代前半」に変化が訪れると記しておいででした。(下記引用は『組版原論』p.102(1996年、太田出版、ISBN4-87233-272-5)より。)
明治四年後半の印刷物から出現する長崎新町(新街)活版所(築地活版の前身・平野活版製造所のいわば「本家」に相当する)の五号仮名は、早くも明治七年には最初のリメイクを受けている。この五号仮名は、明治十年代―二十年代を通じて微妙な改刻の手を入れられて徐々に洗練されていくが、やがて明治三十年代前半に至って築地活版は新しいスタイルへと仮名を一変させる。これ以降がいわゆる狭義の「築地体五号仮名」というものであろう。それ以前の五号仮名のスタイルは秀英舎を初めとした諸メーカーが受け継いでいくのであるが、こうした経緯からしても、これを決して「秀英体の仮名」などと呼ぶべきではない(正しくは「前期築地型」とでもすべきであろう)。
この後府川さんは、
――の3点では、明治三十年代中葉(以降)に後期五号仮名が登場すると記しておいでです。2004年7月発行の季刊『d/SIGN』第8号所載の「100年前の『印刷雑誌』紙面逍遙」p.73には、次のやうに、後期仮名の出現状況についての記述もありました。
築地活版に於て前期五号仮名は新型へと脱皮を遂げていったのだが、狭義の築地体仮名と言えば、明治三十年代中葉以降に登場したこちら、後期五号を指示する語であろう。この築地体後期五号仮名は、一挙に登場したというよりは「な」など一、二の仮名のみが前期型の仮名と入れ代わって現れ、それほど時間を置かずして全部の仮名の交代に至ったように見受けられる。
さて、後期五号の出現時期は、明治30年代の前半なのでせうか、中葉なのでせうか。この年代測定は、“前期五号”仮名がどのやうに受け継がれていくかといふことと併せて、重要な意味を持ってゐると私は考へつつあります。
ここでは、やうやく近代デジタルライブラリー登録全資料の確認を終へた明治30年〜32年を中心に、築地活版が後期五号仮名を使い始める頃の状況をまとめてみます。
近代デジタルライブラリー登録資料のうち明治20年代後半の出版物について、私はまだ3割程しか眺めてをりませんが、明治27年12月15日印刷の大和田建樹『新文林』、このあたりまでは、すべて“前期”五号のやうです。
明治28年に、最初の転換が訪れます。後期型「は」の出現です。10月31日印刷の戸川残花『世界三大宗教』から、前期型「は」と後期型「は」が混在する様子を引いておきませう。
前期型「は」と後期型「は」の混在は、例えば明治29年4月15日印刷のリギョル『古事新論』など明治29年までは続くやうですが、以下の印刷物を見ると明治30年には後期型しか使はれなくなるやうです。(近代デジタルライブラリーには明治30年に出版されたモノが2004年7月現在で805点置いてあり、うち27点が築地活版による印刷物。五号平仮名の使用を私が確認できたのが、次の10点です。)
続いて、明治31年に、「か」「た」「な」「ま」の4つの後期五号仮名が出現します。2004年7月の近デジに770点ある明治31年出版のうち20点が築地活版による印刷物で、五号平仮名を用ゐる次の6点には当該4キャラクタが出現しないやうに見受けられますが、――
――当時築地活版から活字を購入してゐた博文館印刷工場が明治31年に刷った次の9点のうち後半5点に、後期型の「か」「た」「な」「ま」が現れます。
6月17日印刷の奥村信太郎『通俗文学汎論』から、後期型の「か」「た」「な」「は」「ま」がある箇所を引いておきませう。
翌明治32年に出版されて、2004年7月現在の近デジにある797点中31点の東京築地活版製造所印刷物、このうち五号平仮名の使用を私が確認できたのは、以下の14点でした。一部に前期型と後期型の併用も見られますが、基本的には後期型に切り替はってゐるやうに思はれます。
明治33年以降の全資料確認をしていく中で新たな“前期仮名”使用例を発見するかもしれませんし、また、新聞・雑誌など、近代デジタルライブラリーのスコープ外にある印刷物を当たると、移行年代に関する判断が変はってくるかもしれません。けれども、現在のところ私は、“明治31年から32年にかけて、築地活版は新しいスタイルへと仮名を一変させる”と記しておきたく思ひます。
以上の近代デジタルライブラリー探査状況を踏まえて、改めて注目すべきであるやうに思はれる資料が、東京築地活版製造所による明治31年4月の『五号明朝活字総数見本 全』です。矢作勝美『活字=表現・記録・伝達する』(1986年、出版ニュース社、ISBN4-7852-0029-4)のカバーに表紙の図があり、p.23に「水部」のページが図示されてゐます。
ひょっとすると、築地活版は、「か」「た」「な」「は」「ま」が後期型になった平仮名セットを、明治31年の総数見本に掲げてゐたりはしないでせうか。あるひは、明治36年の『活版見本』の姿を先取りしてゐたりはしないでせうか。はたまた、明治31年4月の時点では「は」だけが後期型だったりするのでせうか。
同書や『明朝活字』(1976年、平凡社)において、築地活版による五号平仮名の書風に関して“前期-後期”の観点からの言及が全くないのが、実に残念です。
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